LOGIN伯爵夫人がそこで、自然すぎるほど自然に話へ入った。「まあ、本当に」 母は扇をほんの少しだけ広げ、周囲の貴婦人たちへも聞こえる絶妙な声量で言う。 「辺境のお勤めは大変でしょうに、こうして春の舞踏会まで連れてきていただけるなんて、セレフィアも幸せね」 連れてきていただける。 その言い方だけで十分だった。 辺境伯夫妻として出席しているはずの自分を、たった一言で“ついてきた妹”へ引き下げる。主体ではなく、同伴させてもらった哀れな娘へ。伯爵夫人らしい、見事な毒だった。 周囲の耳が、またわずかにこちらを向くのがわかる。 父も続いた。「もともと、セレフィアは内向きな娘でしてな」 口調は穏やかだ。 「華やかな場は苦手ですから、こうして外へ出してやっているのを見ると、家族としてもありがたい限りです」 家族として。 ありがたい限り。 それらもまた、同じ毒の別のかたちだった。辺境伯夫人として立つ人間ではなく、扱いに困る娘を善意で外へ連れ出してもらっている、とそう聞こえるよう整えられた言葉。 セレフィアは、自分の呼吸がまた浅く細くなっていくのを感じた。 昔の自分なら、この場で小さく笑って頷いただろう。母の言葉を補強し、父の言葉へ礼を言い、姉のほうが本来ふさわしいのだという空気を、自分でさらに整えてしまっていたかもしれない。そうすることに慣れていたからだ。 けれどいまは違う。 違うはずなのに、身体のどこかはまだ昔のまま反応する。胸の上のほうだけが動く。喉が乾く。手のひらへわずかに汗がにじむ。王都の光と香水と視線が、そういう古い習慣を呼び起こす。 そしてオルフィーヌは、とどめを刺すように笑った。「でも」 彼女は、まるで姉妹の冗談を言うみたいな軽さで、けれど周囲へきちんと届くように言う。 「辺境伯夫人の座は、もともと私のものになるはずだったのですものね。人生って、本当に何が起こるかわからないわ」 その一言に、空気がひどく薄くなる。 露骨に奪い返すとは言っていない。けれどほのめかしとしては十分すぎた。もともと自分のものだった、と姉は言ったのだ。この場で。王都の視線が集まる舞踏会の中央近くで。 伯爵夫人はそれを咎めない。むしろ扇の陰へ唇を隠し、困ったような、けれどどこか哀れむような顔を作る。父もまた、あえて何も言わない。否定しないことそのも
視線はたしかに多かった。だがその多くは、一瞬で価値を測ろうとする王都らしい視線だ。ドレス、立ち方、顔立ち、年齢、並ぶ男の態度。ひととおりをなめるように見て、噂へ使えそうな箇所だけを拾っていく視線。 セレフィアの今日の装いは、ネリサが王都へ入る前から決めていたものだった。 辺境伯夫人としての格を損なわず、だが伯爵家の娘らしい甘さへは戻さない。深い緑に銀灰を重ねた色。胸元の飾りは控えめで、刺繍は細かいが過度に華やかではない。王都の流行りを知っている者なら「遅れてはいない」とわかり、同時に「媚びてはいない」ともわかる線。辺境の色でありながら、この場に埋もれないよう整えられた一着だった。 ドレスの重みを肩に感じながら、セレフィアは一歩ずつ会場の中央へ進む。 その途中で、すれ違う貴婦人たちの囁きが薄く耳に入った。「辺境伯の……」「まあ、思ったより」「姉君のほうでは……」「本当に?」 断片だけ。だが十分だ。王都では噂はいつも、こうして半分の形で空気へ浮いている。何も知らぬふりをしながら、皆がすでに何かを知っている顔をしている。 そして、会場の中央近くまで進んだ時だった。 人垣の向こうで、一つの色が、妙に鮮やかに目へ刺さる。 淡い真珠色の絹。 あれほど多くのドレスがあるのに、その色だけがなぜか不自然なくらい目につく。光を反射しすぎるわけでもなく、地味すぎるわけでもない。ただ「見て」と言わぬ顔で、見られる位置へきちんと立っている色。 オルフィーヌだった。 姉は、ひどく美しく整えられていた。 王都の社交界へ戻った令嬢として、これ以上ないほどに。髪は丁寧に巻かれ、真珠と小さな透明石を散らした飾りが光を細かく弾く。首筋は白く、肩の線は薄絹越しに繊細だ。恋人に捨てられた女の陰は、少なくとも表面には一つも見えない。むしろその失意さえ、憂いの美しさへ塗り替えてしまった顔だった。 けれどセレフィアには、その目の奥にあるものがわかった。 高慢さだ。 失ってなお、自分が本来あるべき場所を取り戻せると信じている女の目。捨てられたのではない。世界の側が間違えただけだと、本気で思っている人間の目。 オルフィーヌは、セレフィアを見つけた瞬間に、ほんの少しだけ笑った。 姉妹だけに通じる、あの笑いだった。社交界の誰も見れば優雅な微笑みだと思うだろう。だがセレフィアに
王都の夜は、いつだって光りすぎる。 辺境の城にも灯りはある。暖炉の火も、廊下の燭台も、書庫の机に落ちる細い明かりも。けれどそれらは、人が寒さを越え、足元を見失わぬために置かれている光だ。必要なぶんだけを照らし、熱を伴い、闇をすべて消そうとはしない。 王都の灯りは違う。 闇を消すためではなく、誰かを見せるために燃えている。 王宮の舞踏会場へ続く長い回廊を歩きながら、セレフィアはその違いを、皮膚の上でひりひりと感じていた。 壁という壁に磨き上げられた燭台が並び、無数の火が金の装飾へ映って、さらに光を増やしている。床は鏡のように磨かれ、絹の裾も靴の先も、すべてそこへ薄く二重に映る。天井画の青と金は夜の中でも褪せず、香が焚かれているのか、空気は花と粉香と酒の匂いで薄く甘い。だがその甘さは、安心をくれるものではなかった。むしろ、呼吸を浅くする種類の甘さだ。 王都へ入ってから二日目。 辺境伯家の旧屋敷へ落ち着き、舞踏会用の支度を整え、伯爵家からの使いをバルタザルがすべて表で止め続けてきた。そのあいだもセレフィアは、王都の空気が少しずつ自分の呼吸を変えていくのを感じていた。道を行く馬車の音、人々の視線の滑り方、遠くからでも漂ってくる香水の濃さ。北辺でほどけはじめていた胸のあたりが、こちらへ来るとまた無意識に細くなる。 そしていま、王宮の舞踏会場へ近づくほど、その浅さははっきりしていった。 息が、浅い。 自分でわかる。胸の上のほうだけが小さく上下し、深く吸う前に次の息が来る。喉の奥が少し乾き、肩が知らぬうちに上がる。王都を離れる前の自分が、どんなふうにこういう場所をやり過ごしていたのか、身体はまだ覚えているのだろう。笑う角度。視線の落とし方。余計な感情を見せぬための首筋の硬さ。そういうものが、舞踏会場の手前まで来ただけで戻ってくる。 けれど、以前と違うこともある。 いま、セレフィアは一人ではなかった。 隣にゼルヴァンがいる。 彼はいつもの濃い色の軍装に近い礼装を纏っていた。王都の貴族たちのように飾り立ててはいない。だが黒に近い濃紺の布は質がよく、肩の線は無駄なく整い、胸元の金具も必要な分だけが静かに光る。左眉尻からこめかみへ走る薄い古傷が、王都の過剰なきらめきの中では、逆にこの人の輪郭を際立たせて見せていた。 彼は何も言わない。 だが歩幅を、ほん
彼の手は、熱いわけではなかった。けれど冷えていない。乾いたあたたかさがある。大きく、骨ばっていて、しっかりしている。その手が、黙ってセレフィアの指先を包む。強く握り込むのではない。ただ、冷えた手がそこから逃げぬよう、両側から支えるみたいに包む。 その瞬間、セレフィアの胸の奥で何かがひどくやわらかく崩れた。 恥ずかしい、と思うより先に、あたたかい、と思った。 そして次の瞬間には、その近さと静けさと、あまりに当然のような手つきとで、心臓が急に早くなる。息が浅くなりそうになるのを、どうにか堪える。「まだ冷たいな」 ゼルヴァンが、ごく低く言う。 まるで、それがいま一番大事な確認であるみたいに。 王都の舞踏会でも、姉でも、実家でもなく。まず手の冷たさを確かめる。それが彼なのだ、とセレフィアはあらためて思う。大きなことの前に、いま目の前の人の冷えを見ている。「すみません」 とっさにそう言ってしまう。 ゼルヴァンの眉がわずかに寄る。「謝るな」 短い。だがいつもより少しだけ硬い。「……はい」 セレフィアは素直に頷いた。彼の手の中で、自分の指先が少しずつ感覚を取り戻していくのがわかる。それと同時に、胸の奥もじわじわ熱を持つ。こんなふうに手を包まれることが、どれほど深く自分を揺らすのかを、ゼルヴァンはたぶん知らない。 彼はしばらく何も言わず、そのまま手を包んでいた。火の落ちた暖炉の気配、外廊下の向こうで鳴る風のない静けさ、夜更けの宿の眠った空気。その中で、彼の手の温度だけが確かだった。 やがて、低い声が落ちる。「君を一人では立たせない」 その言葉は、どんな愛の言葉よりも深く、まっすぐにセレフィアの胸へ入った。 愛しているでも、守るでもない。君を一人では立たせない。 それは甘い囁きではない。けれどいまの彼女にとって、それ以上に欲しかった言葉だった。王都の舞踏会の中央に立つ時も、実家と姉の前へ出る時も、自分の人生を自分で選ぶために一歩を踏み出す時も、ひとりでは立たせない。 その約束は、誓いのようでいて、彼らしい実務の言葉でもある。隣に立つ。支える。必要な時には手を打つ。そういう人が言うから、余計な飾りがなく、信じられる。 セレフィアは喉の奥が熱くなり、目を伏せた。泣きそうなのではない。けれど、その一言を受け取る場所が胸のいちばん深いところ
気づけば何度も寝返りを打っていた。シーツの擦れる音が、小さな部屋ではやけに大きく響く。暖炉の火は弱められている。窓の外には風の音はない。だからこそ、自分の呼吸の浅さだけがひどくはっきりわかる。 やがて、扉の向こうでほんのわずかな気配がした。 ノックはない。だが廊下側の小さな居間に、まだ誰かが起きているのだとわかる。ゼルヴァンだろう。道中の夜は、いつもよりさらに浅く眠る人なのだと、夕方バルタザルが小さく言っていた。土地勘のない場所ではなおさらだと。 セレフィアは、寝台の中でそっと息を吐いた。 呼ぶべきだろうか。 ネリサでも、ミレナでもなく、今ここにいるのはゼルヴァンだけだ。もし眠れないのなら、消える前に誰かに言え、と彼は温室で言った。俺でもいい、と。 その言葉を思い出すたび、胸の奥があたたかくも、痛くもなる。だが、夜更けに眠れないからといって扉を開けるのは、まだためらわれた。彼は自分の部屋ではなく、道中の警戒のため起きているのだ。そこへさらに自分の不安まで持ち込むのは、あまりに幼い気がした。 そうして迷っているうちに、寝台の中の手が、ひどく冷たくなっていることに気づく。 部屋は寒くない。毛布も足りている。なのに、胸の中が落ち着かぬ時、手だけが先に冷えるのだと、セレフィアは前にも何度か経験していた。温室へ逃げ込んだ時もそうだった。客間で王都からの手紙を聞いた時も。心の冷えが、末端へ先に出るのだろうか。 とうとう眠りを諦めて、セレフィアはそっと起き上がった。 肩へショールを引き寄せ、足音を立てぬようにして寝室の扉へ向かう。そこを開ければ、小さな居間があり、その向こうに外廊下へ通じる扉がある。その居間に、人の気配がある。 扉を細く開くと、暖炉の火の落ちた橙色の明かりが、薄暗い居間を照らしていた。 ゼルヴァンは窓際の椅子に座っていた。灯りは最小限。机の上には読みかけの書類が数枚と、湯の冷めかけたカップ。だが彼自身は書類を見ていなかったらしい。扉の小さな音だけで顔を上げ、そのままセレフィアを見る。「どうした」 低く短い声。 セレフィアはその一言だけで、自分の喉が少しつまるのを感じた。彼はもう、自分が眠れていないことをほぼ察している。だから説明も責めもしない。まずどうしたとだけ聞く。「……眠れなくて」 正直にそう言う。 ゼルヴァンはすぐに
違うはずなのに、馬車が動き出した瞬間、身体の奥に古い緊張がひとつ戻ってくるのを止められなかった。 窓の外では、城壁がゆっくりと遠ざかる。見慣れた回廊の影、訓練場の石、保温室の小さな窓、乾燥庫の外壁。ここ数か月で、セレフィアはこの城の中に少しずつ自分の居場所を作ってきた。薬草茶の湯気。毛布の色糸。衝立の位置。市場で見た暮らし。温室で言った「逃げるのをやめたい」という言葉。その全部を置いて、いままた王都へ向かう。 胸のどこかが、きゅうと縮む。「寒いか」 向かいに座るゼルヴァンが、窓の外から視線を戻して訊いた。「……少しだけ」 正直にそう答える。実際、車内は暖かい。座席の下へ湯たんぽも入れられているし、ネリサが用意した毛織のひざ掛けも膝へかかっている。だから寒いのは体というより、もっと別の場所なのだろう。 ゼルヴァンはそれ以上問わなかった。ただ、脇の小卓へ置かれていた茶の壺をひとつ手に取り、セレフィアのほうへ寄せる。喉をやわらげるための薄い薬草茶だ。香りは強くない。けれど湯気が立つだけで、車内の空気がほんの少し柔らかくなる。「飲んでおけ」 低い声。 「最初のうちは道が揺れる」「ありがとう」 そう言って杯を持つ。手の中へ熱が移る。その熱を感じながら、セレフィアは窓の外へもう一度目をやった。 朝の白さの中を、馬車はゆっくり進んでいく。城下を抜け、まだ冬の名残を抱く畑の間を抜ける。人家の煙は細く、羊の群れは遠く、橋の板は乾いて見えても、影のところだけまだ白い。これが王都への道だ。春の舞踏会へ向かう道であり、実家と姉のいる場所へ戻る道でもある。 自分で選んだのだ、とセレフィアは心の中で言い聞かせる。 逃げることもできた。けれど行くと決めた。誰にも決めさせたくなかったから。もう自分の人生を、他人の都合へ明け渡したくなかったから。 そう決めたはずなのに、馬車の車輪が北辺の城を遠ざけるたび、緊張は少しずつ体へ入ってくる。昼になり、夕方になり、最初の宿駅へ着いた頃には、セレフィアの手は自分でも気づかぬうちに少し冷えていた。 * 最初の夜は、宿駅に付属した小さな離れで取ることになった。 辺境伯家が使う部屋としては飾り気が少ないが、必要なものは足りている。厚手の寝台、暖炉、湯、洗面台、簡単な食事。王都へ向かう道筋の宿らしく、贅沢ではないが清







