로그인雪が降るわけでもなく、かといって春の匂いがはっきりするほどでもない、曖昧な午後だった。 北辺のこういう日は、空そのものが迷っているみたいに見える。高く薄い雲が空一面へ広がり、陽はその向こうにあるはずなのに、光だけがどこかで拡散してしまっている。中庭の石は白く乾いているようでいて、ところどころに水気を含んだ灰色が滲み、踏みしめられた雪の端はまだ頑固に残っていた。風は強くない。けれど止んでもいない。回廊の角を曲がるたび、冷えた空気が布の裾へ細く入り込み、遅れて足首のまわりに冷たさがまとわりつく。 そういう日に限って、紙はよく散らかる。 いや、散らかるというより、片づけても片づけても次が生まれてくるのだ。補修に関する簡易報告、保温室の改善後の使用記録、薬草乾燥庫の札の書き換え、毛布配布の色糸表の清書、そして市場の取引に関する簡単な照会。大きな案件ではない。けれど城の暮らしが少しずつ動きやすくなったぶん、それを支える小さな書類が増えていく。 セレフィアは東翼の小さな執務机に向かい、その紙の束と格闘していた。 もともと伯爵家の娘として、公的な執務机へ座ることなどほとんどなかった。だが裏方として書くことには慣れている。数を揃え、言葉を整え、必要なものを見失わぬよう紙へ留めること。それらはずっと、誰かの名の下でやってきたことだった。けれどいま机の上へ散らばっている紙の多くは、自分が見つけ、自分が提案し、自分が確認したことに繋がっている。その違いが、まだ時々ひどくくすぐったく、同時に少し誇らしい。 窓の外は白く曇り、室内の暖炉は弱めに入れられていた。燃えすぎると紙が乾きすぎるし、火のそばへ寄せたインクが濃くなりすぎる。ネリサがそう言って、午前のうちに火の加減を見ていってくれた。机の右手には、小さな茶器と、冷めぬよう布を被せられたポット。喉にやさしい茶を少し薄めたものだ。書き仕事の時にちょうどよいと、今ではミレナが何も言わずに用意してくれる。 セレフィアは一枚の紙へ視線を落とし、さらさらと走り書きを重ねていた。 正式な清書ではない。あとでバルタザルへ渡す前の、自分用のまとめだ。薬草乾燥庫の瓶入れ替え周期を週ごとに見直すこと。保温室の火鉢炭の追加分は、見回りの増える日だけ厚くすること。洗濯場で補修へ回す毛布の枚数が偏った時の一時振り分け。どれも思いついたことをまず素
客間へ戻ると、ミレナがすぐに温かい茶を用意してくれた。香りは喉にやさしいもの。木杯を両手で包み、セレフィアはようやく深く息を吐く。「お疲れですか」 ミレナが訊く。「……少しだけ」 そう答えた声は、自分で思っていたよりかすれていた。 疲れというより、胸の中が忙しすぎるのだ。若い騎士の敬意を受け、そこで初めて見えたゼルヴァンのわずかな機嫌の悪さ。その事実が、胸の奥のやわらかなところを何度も撫でていく。「今日は騎士の方々にもお茶が好評だったのですね」 ミレナが何気なく言う。「ええ」 セレフィアは木杯の湯気を見つめる。 「とても、まっすぐに褒めてもらって……」 そこまで言って、ふと自分で笑いそうになる。 「でも、それより」 それより。 その先を言うべきかどうか迷う。だが、胸の中の熱はもう一人で抱えているには少し落ち着かない。「……ゼルヴァン様が」 その名を口にしただけで、喉が少し熱くなる。 「少しだけ、機嫌を悪くなさったように見えたの」 ミレナの手が、茶器を拭く布の上で止まった。「まあ」 それは驚き半分、そしてどこか納得も混じるような小さな声だった。「私の見間違いかもしれないけれど」 セレフィアは急いで付け足す。 「でも、ほんの少しだけ……」 木杯を持つ指先へ、また力が入る。 「リュゼルが、私に……あんなふうに言っていたから」 “尊敬します”。 “またお知恵を借りられれば”。 そのまっすぐさと、ゼルヴァンの静かな不機嫌。その対比を思い出すだけで、胸がどうしようもなく揺れる。 ミレナは数拍黙ったあと、布をそっと畳んだ。「それは……」 少しだけ微笑みを含んだ声。 「もしそうでしたら、とても」 そこまで言って、彼女はあえて言葉を切る。「とても、何?」「奥方様には、もうおわかりでしょう」 セレフィアは、それ以上問い返せなかった。問い返してしまえば、答えがあまりにもはっきりするからだ。 けれど、その答えは胸の中でとっくに形を持っている。嫉妬。ヒーローの嫉妬。そんなふうに軽く呼ぶには、あまりにも静かで、あまりにも小さな機嫌の悪さだった。だが小さいからこそ、真実に思える。大げさな牽制や露骨な独占欲ではなく、ほんの一瞬、声の温度が落ちただけの嫉妬。それがかえってゼルヴァンらしい。 セレフィアは
そう思おうとする。けれど、リュゼルがこちらへまっすぐ敬意を向けていた時と、そのあとゼルヴァンが彼の名を呼んだ時とでは、明らかに中庭の空気の硬さが違った。 セレフィアがそこへ密かに戸惑っていると、不意に別の方向から小さな気配がした。 バルタザルだった。 老執事はいつのまにか回廊の柱の陰へ立ち、ひと連なりのやり取りを最初から見ていたらしい。その表情はきちんと整っている。整っているのに、目元の奥だけがひどく静かに面白がっているのを、セレフィアは見てしまった。 見てしまった瞬間、頬の内側が熱くなる。 バルタザルは何も言わない。ただごく自然に歩み寄り、ネリサへ「午後の帳面の件ですが」と、まったく別の実務の話を始める。けれどその一拍だけ遅れた入り方が、どうにも「わかっている」人のそれに思えてならなかった。 ゼルヴァンもまた、バルタザルの気配には気づいているはずだ。だが何も言わない。ただ木杯をもうひと口飲み、騎士たちのほうへ視線を流す。 セレフィアはその横顔をそっと見る。 表情は平静だ。けれどたしかに、さっきリュゼルへ向けた時の空気の鋭さは、まだ完全には消えていない。とはいえ、それは「怒り」と呼ぶほど強いものではない。もっとずっと細く、静かな違和感。ひとことで言えば、機嫌をほんの少しだけ損ねている人の空気。 それが、どうしてなのか。 いや、もうほとんどわかっている。わかっているからこそ、セレフィアの胸はまたひどく落ち着かなくなる。 リュゼルは若い。まっすぐだ。敬意も好意も、隠さずそのまま顔へ出す。彼がセレフィアをどう見ているかといえば、まずは仕事ぶりへの尊敬だろう。奥方だからではなく、ちゃんと見て、考え、役に立つことをしている人として見ている。そのまっすぐさに、セレフィア自身も少しだけ嬉しくなった。 そして、ゼルヴァンはたぶん、それを見ていた。 見ていて、そのことに、ごくわずかだけ機嫌を悪くした。 そんなことが、あるのだろうか。 それがもし本当なら、あまりにも甘く、あまりにも信じがたい。「奥方様」 ネリサがいつのまにかセレフィアのそばへ戻っていた。 「こちらの壺はもう下げてもよろしいでしょうか」「ええ」 と答えたつもりなのに、少し声が上ずった。 ネリサの目が、ほんの一瞬だけ細くなる。だが彼女は何も言わず、壺を下げる。バルタザルはあ
王都なら、こういう礼にはたいてい余計な飾りがつく。気の利いた比喩や、少し芝居がかった褒め言葉や、相手の機嫌を取るための温度。けれどリュゼルにはそれがない。ただ本当に助かったと思ったことを、そのまま伝えに来たのだと、顔にも声にも出ている。「……役に立ったのなら、よかったです」 セレフィアはそう返す。 「喉は一度傷めると長引きますものね」「はい」 リュゼルは強く頷く。 「特に春先は、昼に気が緩んで、夜にまたやられるので」 それから、少し躊躇いながら続ける。 「奥方様は……その、こういうことをよくご存じなのですね」 セレフィアは、その問いにどう答えるべきか少し迷った。よく知っている、と胸を張るほどではない。だが何も知らぬふりをするのも違う。結局、正直に答えることにする。「細かなことを気にするのは、昔から得意だったのだと思います」 リュゼルの目が、そこでぱっと明るくなった。「得意なことを、ちゃんと人のために使えるのはすごいことです」 あまりにも迷いのないその言葉に、セレフィアの胸の奥が少しだけ揺れる。 役に立つ。助かる。必要だ。そういう言葉には、この城で少しずつ慣れてきた。けれど「すごいことです」と真正面から言われるのは、まだどうしてもむず痒く、落ち着かない。「そんな」 思わず小さく首を振る。 「大したことでは……」「大したことです」 リュゼルはきっぱり言った。 「自分たちでは、喉が痛い、寒い、眠い、くらいまではわかっても、それをどう手当てすればいいかまではなかなか」 それから少しだけ視線を逸らし、また戻す。 「しかも、奥方様は兵だけでなく、洗濯場や厨房にも同じように考えてくださっていると聞きました」 彼は真面目な顔で続ける。 「そういう方を、俺は尊敬します」 尊敬します。 その言葉が落ちた瞬間、セレフィアは自分の背筋がわずかに伸びるのを感じた。嬉しさもある。だがそれ以上に、その言葉の重みがある。彼はおそらく、奥方だから礼を言っているのではない。本当に、目の前の行いへ敬意を払っているのだ。 こういう種類のまっすぐさに、セレフィアはまだ弱い。 王都では、敬意は格式や血筋や見せかけの所作へ向けられることが多かった。ここでは違う。リュゼルの目にあるのは、働きそのものへのまっすぐな敬意だ。「……ありがとう」
城の朝は、いつのまにか少しだけ音を変えていた。 冬の深い時季には、朝の気配はもっと低く沈んでいた。扉の開閉も、靴音も、声も、すべてが寒さに押さえ込まれたように小さく、石壁の中へ沈んでいく。けれど春の端がようやくこちらへ近づきはじめた今は、まだ冷たい空気の中にも、どこか抜けのよい響きが混じる。中庭で桶を置く音が少しだけ高くなり、遠くで馬の蹄が石を叩く音も、冬の盛りより乾いて聞こえる。朝の火起こしの匂いにも、薪だけでなく、どこか湿った土の気配が混じりはじめていた。 その朝、セレフィアは東翼の一角にある小さな薬草乾燥庫で、瓶の数を確認していた。 先日整えた風除け布はもうきちんと内扉のように馴染み、扉を開け閉めするたびに流れ込んでいた湿った風は、以前よりずいぶん抑えられている。棚の位置を変えたことで、喉向けの細い葉も、眠りを整えるための柔らかな花も、乾き方が以前より揃ってきた。たったそれだけのことなのに、瓶へ詰めたあとの香りの立ち方まで少し違うのだと、セレフィアは気づいていた。 薄く陽の差し込む棚の前で、指先へ瓶の重みを移しながら、彼女は一つひとつ札を確かめていく。冷えを散らすもの。喉をやわらげるもの。頭の張りをほどくもの。眠りの浅い者向けのもの。王都でこっそり自分のためだけに調えていた頃とは違う。いまはこれが、城じゅうの人間の一日や一晩へ、少しずつつながっているのだと思うと、胸の内側が静かに熱を持つ。 薬草茶を配ることも、保温室の衝立も、毛布の色糸も、もうすっかり城の中へ根づいていた。 厨房の若い男は朝のうちに「今日は外の荷運びが多いので、喉のほうを少し」と言いに来るし、洗濯場の女たちは色糸を見ただけで手早く夜番用の毛布を選び分ける。保温室の戸口へ立てた衝立は、誰も褒めたりしない代わりに、もう何の違和感もなく使われている。そういう「当たり前になっていく」変化が、セレフィアにはたまらなく嬉しかった。 大きな改革ではない。 けれど、確実に人を助けている。 それを、ここでは誰も大げさに言わない。だからこそ、なおさら本物に思えた。「奥方様」 背後で呼ばれ、セレフィアは振り返った。ネリサではない。まだ若い侍女が、少し息を弾ませながら立っている。「どうしましたか」「中庭でございます。騎士団の訓練のあとに、何人かに喉向けのお茶をお出しできるかと……」
客間へ戻る途中、廊下の角でゼルヴァンとすれ違った。彼は執務室から出てきたところらしく、手には巻いた書類を持っている。足を止めると、視線がまずセレフィアの顔へ、それから彼女の手元の紙束へ落ちる。「見てきたか」 人前だ。向こうからバルタザルも歩いてきている。だから呼び名は使われない。ただ、その声の落ち着きに、セレフィアはすぐ気づく。「はい」 彼女は答える。 「もう、動いていました」 ゼルヴァンは短く頷くだけだ。「間に合ううちに動かしたほうがいい」 それだけ。 まるで当然のことのように。大したことではない、というふうに。けれどその当然さが、どれほど胸を揺らすかを、たぶん彼はわかっていない。わかっていても、わざわざ言わない人なのかもしれない。「ありがとうございます」 セレフィアは小さく言う。 ゼルヴァンは書類を持ち直し、ほんのわずかに目を細めた。「礼を言うなら、使う者に言われてからでいい」 それから、言葉を足す。 「案を出したのはお前だ」 その一言が、また静かに胸へ落ちる。 人前では奥方。二人きりならセレフィア。だがこうして人前でも、ときどき彼は呼び名を省いたまま「お前」と言う。役目の名前より少し近く、けれど私的すぎない、その曖昧な距離に、セレフィアはまた胸の奥をわずかに熱くする。 ゼルヴァンはそれ以上話さず、去っていく。書類の束を抱えた背中は相変わらず無駄なく、歩みも迷わない。なのに、その背中の後ろへ、言葉より先に手を打つ人のやさしさがはっきり見えてしまう。 セレフィアはその場で少しだけ立ち止まった。 言葉より先に手を打つ。 自分の案が形になるよう、予算と人手を先に押さえておく。 それは「好きだ」と言われるよりも、彼らしい愛情の形に思えた。いや、まだ愛情と呼んでよいのか、確信は持てない。けれど少なくとも、そこには特別な目配りがある。自分の言葉が埋もれないよう、働きがきちんと現実になるよう、見えないところで道を整えておく。そういう支え方は、誰にでもするものではないだろうと、もうセレフィアは感じはじめていた。 その日の夕方、薬草茶を配り終えたあと、ネリサがぽつりと言った。「旦那様は、先に道をあけておくのがお好きなのです」 セレフィアは振り返る。「お好き、ですか」「ええ」 ネリサはいつものように平静だ。 「